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金字塔の頂石

『金字塔の頂石』

 

ツールはすべて揃っていたと思っていました。しかし、これまでいつも助けになっていたものが、私の内側の状態を真に変化させることが出来ていない事に気づきました。

 

感謝に溢れ問題なく幸せに毎日を過ごしながらも、頭の片隅、潜在意識の中には不安や心配が波動していて何かのトリガーでそれらが湧き上がり、神経系に緊張と乱れを与えていました。今にして思えば、サバイバルモードでずっと生きていたのでしょう。

 

心を自由にする、これだけのヴェーダンタの叡智に、長年継続しているタントラヨガの様々な実践、マントラチャンティング、マントラジャパ瞑想、サイレントメディテーションやマインドフルネス瞑想など様々な瞑想スタイル、インド各地のお寺や聖地を巡りパワフルな体験を沢山し、バクティに満ちている日常、それでもハートは何かをまだ探し求めていました。

 

そういう思いで私はバラナシのガンジス川に全身全霊で祈り、サンカルパを捧げました。ヴリンダーヴァンのお寺でラーダクリシュナに全身全霊で祈りを捧げました。そうしてその祈りは私の瞑想の先生の教えと実践との出会いとして叶えられたのです。

 

ツールはすべて揃っていたと思っていましたが、『金字塔の頂石』が欠けていたのです。私の瞑想の先生の教えと実践が私にとってのスピリチュアルライフ(ヨガ、ヴェーダンタ、タントラ、バクティ)の金字塔の頂石だったのです。

 

聖者たちが解いた「4つのヨガの実践をバランス良く行うこと」聖典バガヴァッドギーターの中で解かれている真に自分を自由にする方法がここにあったのです。

 

これで全てのツールは揃いました。あとはこの教えと実践をどこまで自分自身で体現できるか、この教えと実践という乗り物を通して、どこまで自分を自由にできるか。それは誰の責任でもない、誰も私に変わってこのワークをする事もできない、あとは自分で教えと実践を続けて前進するだけ。

 

馬を水飲み場まで連れていく事はできるけど、馬に無理矢理に水を飲すことはできない。水飲み場まで恩寵によりガイドしてもらった。あとは私が実践を続けていくことでしか超えられない山があり、見れない景色がある。

 

私の瞑想の先生の教えと実践の根底にあるワークは『自分を乗り越える事』静かに座り、呼吸を感じて、20、30分座り、『気持ち良かった』で終わる瞑想ではなく、教えを日々の生活に活かし、未来を造像するワークは毎日の生活の中で教えを生きることにあります。

 

私たちの意識、集中を一千の方向へと引っ張っていくこの魅力的な世界に、快楽をもたらす沢山の楽しいことに自分の意識を明け渡す方がどれほど簡単で楽なことか。瞑想する時間とエネルギーを友達とワイワイお酒を飲みに行く(お酒飲まないですが)ネットフリックスやスマホに集中を注ぎ、楽しませてもらう方が楽しくて簡単。

 

ヨガや瞑想の実践は時間がないから、忙しいから、疲れているからと言ってスルーすることはとても簡単にできる。

 

外側の楽しいことが一杯の魅力的な世界に真の喜び、真のシャンティ、真のパワーを探しに十分にエネルギーを注ぎながらも、欠乏感は満たされない、そこに真の喜びと真のパワーはないという事に、長年の包括的なヨガの実践が気づかせてくれていたから、毎日欠かさず続けている瞑想の中で、自分を乗り越えていく、感情を乗り越えていく不快感に完全に飲み込まれてしまうのではないかと、何度も何度も感じながらも私は瞑想を続けました。

 

続けていくと明らかに私の神経系に今までに体験した事のない落ち着きが根付いていきました。実際に私の瞑想の先生のガイド瞑想を初めて実践した時に今まで感じたことのない、自分の中の深いリラクゼーションを感じました。

 

全ての瞑想が最高に気持ち良いわけではなかったし、最後まで続けられないのではと思った瞑想もありましたが、途中で投げ出すことなく、諦めず最後まで瞑想を続けました。

 

自分を乗り越え、瞑想を1日も欠かさず続けていると、自分の器が確実に広がっていきました。不安は薄れていき、ハートは欠乏することなく、完全に満たされている事に気づきました。

 

仮に不安を感じたとしても、それとどのように向き合ったら良いかわかるので、不安や心配を感じることを恐れなくなりました。

 

去年私は美しいメキシコのカンクンで行われた先生の瞑想リトリートに2回参加しました。去年末のメキシコでの10日間の瞑想リトリートは先生の瞑想リトリートへ4回目の参加でした。

 

私たちの瞑想コミュニティーが “Holy Ground” 「聖地」と呼ぶ、メキシコの美しいビーチでの歩行瞑想の際に、先生の瞑想リトリートに初めて参加した時のこと、ロンドンで開催した先生の瞑想リトリートに歩を進めたあの時の自分のことを思い出しました。

 

その瞑想リトリートでの先生のガイド瞑想を体験した後、長くて深い眠りから目覚めた様な感覚、強い催眠術から解かれた様な全身全霊で自由を感じた感覚は鮮明に覚えています。

 

不安や不確実さ、不快感がありながらも、自分のために一歩を踏み出した過去の自分のことを。今の私は、当時の彼女を心からの愛おしさを持って振り返っています。彼女の勇気に。彼女の信頼に。自分を諦めずに進み続けようとした、その意志にその決意に。

 

海から太陽が昇る中で先生のガイドによる歩行瞑想(ウォーキング・メディテーション)をしながら、先生が仰いました

 

「人生そのものが贈り物である」

 

その美しいHoly Ground 聖地で、私はおそらく初めて、その言葉がどれほど深く真実であるかを肌で感じたのです。

 

確かに、私は人生の中で美しいものをたくさん創り出してきました。沢山の夢を叶えた体験、経験、チャンス、人間関係、そして一生の宝物となる魂の中心に刻印される沢山の思い出。

 

けれど、私が最も感謝しているのは、その過程で「自分がどのような人間に生まれ変わったか」ということです。

 

今、私が人生に対して抱いている畏敬の念。人生を丸ごと受け止める能力。心地よい部分だけでなく、そのすべてに対して、今この瞬間に存在しようとする意志。真の喜び、真の平和、真のパワーを体現することが何にも変えられない、計り知れない恩寵であること。

 

私がこれをシェアしたのは、多くの人が人生をガラリと変えるような大きなブレイクスルーや、大きなサイン、劇的な瞬間を待ち望んでいるからです。

 

しかし多くの場合、大切なのは小さなことなのです。気分が乗らない時でも行う瞑想。現実逃避する代わりに踏み出す歩行瞑想。逃げ出したくなるような瞬間に、あえてその場に留まり、ヨガマットの上に立ち続けるという選択。

 

そうした一見、何でもない普通の瞬間こそが、非凡な人生の土台となります。もっと自由に人生を生きたい、昨日とは違う景色を見たいと思うなら、自分との信頼関係を築いてください。自分を諦めず一歩を踏み出し続けてください。

 

あなたが立ち止まったままでいるなら、宇宙が歩み寄ってくれることはないからです。恩寵によって水飲み場まで導いてもらったら、あとは誰にも私たちに無理矢理お水を飲すことはできないのです。

 

Ram Ram

 

OMkari

 

2026年8月11日

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